世界基準を目指した日本ワイン
戦後から高度成長期、産業としての日本ワインが生まれるまで
著者
JOUKEI編集部
公開日
2026年5月25日
戦後、日本ワインは大きく変わっていく。大量生産。品質管理。醸造技術。温度管理。衛生管理。そして、「世界で通用するワインを作る」という思想。日本ワインは、本格的に"品質"へ向かい始める。
戦後、日本ワインは大きく変わっていく。 それまでの葡萄酒づくりは、 どこか"試行錯誤"の側面が強かった。 けれど高度経済成長と共に、 ワイン産業そのものが近代化していく。 大量生産。 品質管理。 醸造技術。 温度管理。 衛生管理。 そして、 「世界で通用するワインを作る」という思想。 日本ワインは、 本格的に"品質"へ向かい始める。
当時の日本では、
まだワインは一般的な飲み物ではなかった。
どちらかといえば、
洋食文化やハイカラ文化の延長線上にある、
少し特別な存在だった。
しかし経済成長と共に、
食文化そのものが変わっていく。
肉料理。
洋食。
ホテル文化。
レストラン文化。
ワインを飲む場面が、
少しずつ増えていった。
この時代を支えたのは、
大手ワイナリーの存在だった。
サントリー。
メルシャン。
マンズワイン。
彼らは設備投資を行い、
海外技術を研究し、
欧州品種の栽培へ本格的に取り組み始める。
日本ワインはこの頃から、
"産業"としての輪郭を持ち始めていく。
特に大きかったのが、 欧州系品種への挑戦だった。 メルロー。 シャルドネ。 カベルネ・ソーヴィニヨン。 それまで日本では、 甲州やデラウェアなど、 在来系・生食系品種が中心だった。 しかし世界基準を目指す中で、 ヨーロッパ品種への憧れはさらに強くなっていく。 「本格的なワインを作るなら欧州品種」。 そうした空気が、 確かに存在していた。
しかし当然、
簡単ではなかった。
日本の風土は、
ヨーロッパと大きく異なる。
雨。
湿度。
病害。
台風。
特に日本の夏は、
葡萄にとって過酷だった。
だからこそ、
どこで栽培するかが重要になっていく。
この頃から、
少しずつ"土地を見る視点"が育ち始める。
その中で注目されたのが、
長野だった。
標高。
昼夜の寒暖差。
比較的少ない降雨量。
長野の環境は、
欧州系品種との相性が良かった。
桔梗ヶ原。
東御。
高山村。
現在の日本ワインを代表する土地の多くも、
この時代の積み重ねの中で開拓されていった。
そしてこの頃、
日本ワインは醸造学を本格的に学び始める。
温度管理。
樽熟成。
酵母。
分析。
安定した品質。
それまで感覚的だった部分が、
科学として整理されていく。
これは、
現在の自然派文脈から見ると、
少し"工業化"にも見えるかもしれない。
けれど、
この積み重ねがなければ、
今の日本ワインは存在していない。
日本ワインは長い間、 「甘い」 「薄い」 「本格的ではない」 と言われ続けてきた。 だからこそ、 当時の作り手たちは必死だった。 世界へ近づこうとしていた。 品質を上げようとしていた。 単なる模倣ではなく、 本気で文化を作ろうとしていた。
そして重要なのは、
この時代が"土台"を作ったことだと思う。
欧州系品種の栽培技術。
醸造設備。
衛生管理。
発酵管理。
その後の世代は、
この基盤の上でさらに自由な表現へ向かうことができた。
もしこの時代がなければ、
後の自然派世代も存在しなかったかもしれない。
また、 この頃から日本ワインは少しずつ、 「どこで作るか」を意識し始める。 ただワインを作るのではない。 土地を見る。 気候を見る。 土壌を見る。 つまり、 "テロワール"という考え方が、 少しずつ入り始めていた。 まだその頃の日本ワインは、 「日本らしさ」を語る段階ではなかったかもしれない。 けれど、 土地との関係を考える視点は、 確実に育ち始めていた。
今、日本ワインは世界的にも少しずつ注目され始めている。 けれどその背景には、 この時代の長い積み重ねがある。 品質を追い求めた人たち。 技術を学んだ人たち。 世界基準へ近づこうとした人たち。 その努力の延長線上に、 現在の日本ワインがある。 そしてその先で、 日本ワインは少しずつ、 「世界に追いつく」だけではなく、 「この土地だから生まれる味とは何か」 を探し始めていく。
参考文献
- 『日本ワイン 誕生と奇跡』山本博
- 『日本ワインの教科書』山本博
- 国税庁 日本ワイン表示制度資料
- メルシャン ワイン資料館
- マンズワイン公式資料
- サントリー登美の丘ワイナリー資料